二人で一緒にいても夜は一人で、自分に生まれた悲しさとか寂しさとか苦しさとか切なさとか、全部ひとりで消化しなくてはいけない。隣で聞こえる寝息に安心したことはほとんどなくて、どちらかというと、わたしが寝るまでちゃんと起きててよ、と思うことが多い。

何歳になっても深夜はどうしても一人で過ごすことになるし、一人で過ごしている最中は大体寂しいし、悲しいし、切ないし、泣きそうになるし、いつになったらこういうのなくなるんだろう。何が原因でわたしはずっとこんななんだろう。なんで抱きしめてもらってないとダメで、腕が疲れたからと離されることへの拒否感が強いんだろう。わたしの中のよくわからないの、どうやったら消えるんだろう。

ねえ、わたしが寝るまでちゃんと起きててよ。

あの頃を思い出す、元気にしているだろうか、何度も、何日も、深夜に話したあの人。いくつの夜を二人で乗り越えただろう。いくつの朝を二人で迎えただろう。朝焼けはきみに教えてもらったから好きだったんだよ、ねえ、あなた、電話番号も変えちゃったでしょう、メールアドレスだって消えちゃったし、SNSだって見てないんでしょう。あなたから連絡が来るかもしれなくて、わたしはいまだにソフトバンクのアドレスのまま変えられないし、電話番号だってずっと同じままだよ。待ってるから、いつか、また会いたいし、声を聞けたらいいのに。

元気で暮らしてますように。

好意というのは他人と比べるものではなく、自分の中で自身が一番好きだもん、と自信を持って答えられればそれでいい、と思う。なので、他人のそういった思い出話はあまり耳にしたくないし、耳にするとしても気を許した人の内容についてしか聞きたくない。

好きな人が被るのは幼い頃からずっと嫌いだ。この年になって、追いかけているバンドマンに対して、またこういう気持ちを抱くことになるとは思わなかった。わたしは好意を共有できないし、いわゆる「推し」という概念で人を見ることができない。いつでも、いつだって、きっとこれからもずっと、「好きな人」の括りで見るんだろう。

2010年頃からずっと好きなバンドの、一番好きなメンバーとオンラインで会話をした。

いわゆるシングルやアルバムが発売されて実施されるインストアイベントにはちょこちょこと足を運んでいたが、実際にマンツーマンで、個人だと認識されながら話す機会というのは本当に久しぶりで、たぶん2年以上ぶりなのかな、と思う。2014年か2015年頃に「自分を認知されることを目的に通うのはやめよう」と一旦すべてへの執着を捨てたつもりではいたが、やはり「わたし」として認識されている優越感や幸福感はとても甘い蜜なようで、そういうものを放棄したと思い込んでいたあとも年に一、二度程度そういうイベントに足を運んでいた。

 

今回は、コロナの影響でまったく接触がなくなったことへの配慮から発生したイベントだと思う。一人二分間、ほかに映像での生配信2時間プラスアルファがついて、5,000円ぽっきり。シングルを何枚も、アルバムを何枚も買っていたあの頃に比べても、だいぶお得なんだろうな、と思う。生で握手とサインをもらわないとしても。

 

久しぶりに話す好きなバンドマンは、やはり誠実で、素晴らしかった。ときどきたまにモニターではなくカメラをきちんと見つめてくれるのがうれしかった。

特にたいした話をしたわけではないけれど、楽しかった。

最近とにかく思うのは、二人でやっていないことをたくさんやっていきたいし、二人で行ったことがないところにたくさん行きたいな、ということで、たとえば旅行だし、たとえば遊園地だし、たとえば乗馬だし、たとえばボート乗りだし、それはそこに行きたいとかそれをしたいとかそういうことよりも、「二人でやりたい」「あなたとやりたい」がずっとずっと大きい。わたしの人生はなんというか、彼とやったことがないことをやったり、行ったことがないところに行ったり、その繰り返しというか、それを一つずつ達成することに幸せを感じるんだなと思っていて、だから、元気に健やかに生きていてくれればどうでもいいし、わたしのことを見ていてくれればそれでいいや、って最近本当にずっと考えている。

わたしは生涯をかけて彼を笑わせていたくて、幸せにしたくて、充実させてあげたくて、なんだかおこがましいなと思うことばかりだけど、それでも、一人ぐらい、そういう風に思える人がいたっていいじゃないか、と思う。

毎日、朝日が昇る少し前に目が覚める。恋人(もう付き合って9年目を迎えようとしているのに、未だに関係の名前が変わっていないことに対する焦りはどこかに消えた)が仕事のために早朝に家を出るので、その支度中に自然と目が覚める。その後はすぐにまた眠るか、こうやって少し冴えてしまった頭をクールダウンさせるために、何か適当に読んだら書いたりしている。


嫌いなことが多い。が、ここ数年で感じたのは、嫌いだなと思うときにそのときの感情に巻き込まれて嫌悪感を覚えていないかどうかをきちんと理解しているか、ということ。大体いつも思うままに気の向くままに生活しているので、なんとなく嫌だなと思うと「嫌いだ」とすぐ判断してしまう。が、後日改めて確認すると「そうでもないかな」と思うことが多々あるので、気持ちをフラットにしないとなぁ、と日々感じる。

もしかしたらその「嫌いだ」は直感的なもので、本来は大切にしないといけない何かかもしれないが、何にしても即時的な気持ちにだけ翻弄されていては、いつまでも自分が疲れるだけだ。

外に出たら、まるで春の陽射しを思わせるような温かさだった。服を着るのも面倒だったのでパーカーとスカートと靴下で出たのだけど、今日ばかりはわたしの横着さが気温に勝ったようで、ちょうどよい具合だった。

家の近くの川はすっかり秋模様で、少し前まで青々と茂っていた木々も黄色や赤色に変わっていた。足元に落ちた葉が鮮やかだった。いつもなら少し憂うような秋の訪れに対して、何の感慨も覚えなくなってしまった。きっと、今年だから、だと思う。

 

年に何度か生きている意味がわからなくなる時期が訪れて、それはその時々で長かったり一日で終わったりするのだけど、今回はどうやら深く、そして長いようだ。8月頃から心に訪れた焦燥感と脱力感が続いている。対処法がわからない。今までは大体このぐらいの時期になると好きなバンドのライブに足を運んだり、映画を見たり、そういうことで無理やりにでも自分を引っ張り上げるようにしていたが、今はいわゆるそれにあたるものがない。どうすれば自分を「生きている意味」がわかる状態に持ち直せるのかがわからない。

自暴自棄になりそうで、でもそんなことをしても意味はないよと頭のどこかで理性が止める。道を逸脱したい。若しくは立ち止まりたい。時間は止まってくれない。気付いたら一日の終わりを迎えていて、今日もわたしはダメだったな、と眠りにつく。眠れているだけいいじゃんね、なんてね。

毎年同じようなことを考えているけれど、一生続くんだろうか、この虚しさとの付き合い。しんどいな。