物理的なボタンはどこにもなくて、ただ画面の上で指を滑らせるだけ。昔は親指に脳が入っているのではないかなんて笑っていたけど、今は親指よりも人差し指にその成分が受け継がれたような、そんな気持ち。

ねえ、そんな話を笑いながらしていた人たちよ、今どこにいるの。わたしは未だに自分の中の大事な部分があの頃に残されているような、消せないセーブデータみたいになっているよ。みんなはもう、そんなの忘れて今の暮らしだけに没頭しているのかしら、ねえ、どうすればそうできるの。教えて、教えて。


秋は死にたくなる皆さん、とかTwitterに書かれていて、秋にそんな死にたくなるような要素あったかなあと思ったけど、季節問わずそういう気持ちに陥っていた。人前で騒いだり誰かに訴えたりするようなことはもうないけれど(誰も取り合ってくれないし、一時的な自分の気持ちの解消よりも、その後の人間関係を選べる程度には大人になった)、でもそういうのが消えたわけではないからやはりずっと残っていて、悲しい。切ない。秋の空気は一緒に歩いた季節を思い出す。ねえ、元気にしているのかな、電話番号も変えられない。

こんにちは、こんばんは。

気付いたら10月になっていた。結構、本当に、びっくりした。今年はこんな状況なこともあって、わたしの中では6月と8月、9月は存在していないような感覚になっている。まだ半年ぐらいしか過ごしていないような。濃度が低いわけではないのだけど、何もしていないような、何の変化もなかったような、あったような。よくわからない。でもたぶん、わたしだけではなくて、世界中のいろんな人が今年は特別な一年になっているんだろうな。今年だけだといいけどね、特別な一年。



転職活動をしている。きっかけは何だっただろう。去年の秋頃の台風で、社員への安全配慮が足りないと感じたことかしら。それとも、一番大好きで仲の良かった同僚が辞めたからかしら。はたまた異動してきたおばさまとの相性がめちゃくちゃ悪かったことかしら。若しくは上司との考え方のミスマッチかしら。もしかして今回の騒動で頑なにリモートワークを好ましく思わない会社への不満かしら。何にしても思い当たる節はよくあるなと思う。6年と半年、まあまあ働いた方ではないのか。

自分の過去を振り返り、履歴書に書ける仕事をきちんとしてきたのかな、と不安に思う。誇張できるかどうかというか、客観的に能力として自分で自覚しているかどうか、なのかな。わたしが自分の中では大したことないよと思っていることでも、実は世間から見たら結構よくやっている方だった、というのは往々にしてある。その逆も然りだけど。

新しいところでも(まだ決まってないけど)しっかり仕事できたらいいな。


一年間、何も書いてなかった。

ノリで開設したもうひとつのブログにも何も書いてなかったので、本当に長いことTwitterにしかぶちまけていなかったのか、と驚いた。長いこと長文なんて書いていないので、何を書けばいいのかもよくわからないな。

 

引っ越しをした。6年と少しぐらい住んだ家から、もう少しだけ広い部屋に二人で引っ越しをした。彼とはまだ仲良く楽しく暮らしていて、きっとこのままだと特に大きな変化もないまま一生二人でいるんだろうな、と思う。わたしが身を置く環境を変えても、彼のやりたいことが変わっても、二人の魂はずっと同じだから、ずっと、きっと、一緒にいるんだろうな、と思う。

二人で布団で眠っていると、このままこの布団の世界だけになって、ほかはすべて滅びてしまえばいいのにな、と無意識に考えている。それを彼に言うと、彼は「それはつまらないから嫌だな」と言う。ここで同調するような人だったら、こんなに長く一緒にいられなかっただろう。わたしと彼は、寄り添うには十分過ぎるぐらいフィットするハートを持っているけれど、重ねるとまったく形が合わないんだろうな。だから二人でも大丈夫なんだろうな。

テーブルがこの家にはない。食卓を二人で囲むことがほとんどないのはわかっていることだし、邪魔だから、と彼が家に置くことを嫌がった(たぶん前の家でわたしがテーブルの上に化粧品をたくさん置いたままにしていたから、物置みたいになるのが嫌だったんだろう)。テーブルがないと、生活感が全然発生しないんだな、とわかった。新しい気づきだ、なんて。

 

一人でいる時間が増えた。でも別に寂しくない。それは彼がいなくても大丈夫、とかそういうことではない。そういう状態に、やっとなれたんだと思う。今でも突然悲しくなるしどうしようもない無力感に襲われることもあるけれど、でも、やっと、年相応の落ち着きが生まれ始めたのかな、と思う。長かったな。

新年が明けていた。今年もよろしくお願いします。
毎度のことながら、半期ごとの活動報告だ。日常的な文字打ちは完全にTwitterに取って代わられてしまい、いまここはわたしを「昔からインターネットをやっていた証」として残っているだけのように思う。何だかもう少し、使ってあげないといけないね。はてなダイアリーも消えてしまうしね。嫌だな。


今年は「現場」「自分で体験すること」を大切にしようかなと思っていて、茶道を再開することにした。と、知らない人の知らない世界で行われていることについて聞くのもまあいいかなと思い、講演会にも足を運ぶようにしている。人の話をたくさん聞こう。とりあえずいろんなものを取り入れて、そこから取捨選択しよう。


例年になく前向きな内容だ。いつまで続くだろう。

落ち着いた毎日を過ごしている。残業のし過ぎで上司に呼びだされたけれど、精神的には比較的落ち着いた毎日を過ごしている。諦めたからだろう、いくつかのことを。悪いことではない、多くを望まないことは安定した日々には欠かせない条件の一つだ。わたしたちはそうやって少しずつ、誤魔化しながら生きている。そしていつの日か、誤魔化していたことが何だったのかもわからなくなり、曖昧な不安をどこかに置き去りにして生きることに成功する。おそらく、だけど。


髪の毛に金をかけるようになった。一度の美容院で「お会計、一万七千円です」と言われたときはさすがに「まじですか」と口走ってしまったけれど、日々のストレスがこの高いシャンプーと高いトリートメントと高いヘアオイルと高いヘアバターで解消されるならば、それはきっと安いものなのだろう。三十も過ぎたら、さすがに自分のモチベーションは自分で高めないといけないらしい。そういうのは、放置していても誰も何も気にしてくれないから、自分でどうにかしないといけないらしい。それが大人というやつなのだ。わたしはもう、だれがどう見たって子供ではない。
それでも恋人はわたしを子供だと笑う。愛のある笑い。わたしはそうやって笑う彼が好きだから、いつもわざと子供のような振る舞いをしてしまう。いや、わざとではないな、わたしが外で見せることを許されない子供らしさを、彼は受け入れてくれる。

そろそろ付き合って6年を迎える。社会が決めた事柄はあまり気にせずに、二人で仲良く暮らしている。世界が二人だけになったらどれだけ幸せだろうか。雑音もすべてカットして、わたしと彼だけの世界を築きたい。何にも傷つくことなく、悲しむことなく、穏やかな毎日を過ごすために必要な最後の条件は、きっとこれなんだろう。

昼過ぎまで寝ていたせいで、眠れない。
昔からそうだけど、こんな時間まで眠れない人は大体精神的に不安定な人が多い。健康で健全で安定した精神の持ち主は、日が変わる前に寝ることを心がけ、なるべく変わることのないスケジュールで毎日をこなしている。そういう人生の歩み方を、わたしは一度もしたことがない。



この年になってまで腕を切り続けるとは思わなかった。さすがに社会人の腕に傷が大量発生していると働くことも難しくなるので、肩のあたりを切り続けているけれど。どうしても止められない。自分ではどうしようもない解決できないことに直面する度に、泣いても泣いても何も解決されないときに、どうしても剃刀を手に腕を切りつけてしまう。若しくは爪で腕を引っかいて、血が滲むまで掻きむしってしまう。
恋人ができたら、そういうこととは無縁になるかと思っていた。けれども実際は、隣に彼が寝ていようが何だろうが不安が消えることはなく、ただ寂しさと孤独感と悲しさで胸がいっぱいになる頻度も大して変わらず、一人で声を出さずに泣くことが増えた。それか、彼のいない時間に嗚咽付きで泣き続けることが増えた。二人になることで、一人になったときの寂寥感がより浮き彫りになったのかもしれない。よくわからないけれど。


恋人がいても全く満たされないこの気持ちは何なのだろう。泣きながら腕を切り続けて、わたしはいったいどうなりたいのだろう。幸せになりたいはずなのに、自分からそうではない方向に進んでしまう。本当は腕なんか切りたくない。本当に切りたいのは、わたしのこういう、いつまで経っても死にたいだとか消えたいだとかそういう気持ちなのに、どうしてきみたちはずっとずっとそうやってわたしにまとわりついてくるんだろうね。

やめちゃいたいね、全部ね。


死ぬことについて、具体的に考えることが多くなった。
めちゃくちゃ思春期みたいだけれど、自殺の仕方について検索する日が来るとは思わなかった。死なないのはわかっている、でも、いつか本当に悲しくて悲しくて寂しくて仕方なくて生きている意味がないかもなあという気持ちが止まらないときに、それを選択するかもしれない可能性が10代の頃より高くなってしまった。やだな、幸せになりたいな、目に見える形で幸せになりたいな。結婚したり出産したら、変わるのかな。