すっかり何も書かないまま二ヶ月が経っていた。二ヶ月もあればいろんなことが変わるし、二ヶ月しかなければほとんど何も変わらない。
英会話を始めたのはここに書いたっけ。わたしが勤める会社には年に何回か外国人ゲストを迎える機会がある。2月頃にそれがあったとき、わたしは全然何も話せなくてすごく悔しい思いをした。だから英会話を始めようと思うんだ、と友達に話したら、どうせすぐやめるよみたいなことを言われて心の底からむかついて、始めたまま継続して早四ヶ月が経った。実際どうなのかと言われると、ないよりはマシかなという感じで、やはり何をするにしても自分の意思及び自発的な学習態度は必要なんだなぁ、と思った。
と、それに伴って会社の制度を利用して、スカイプレッスンも始めた。というわけで、今は自分が通う英会話教室のほかに、会社負担のオンライン英会話が加わり、ほぼ毎日何かしら英語でコミュニケーションを取っている。こんなに向上心に溢れたような生活を送るのは、人生初かもしれない。


ライブには「行きたい」ときだけ行くことにした。発表された全日程を押さえることはしないで、ピンと来たものだけ。気持ちの負担がだいぶ減って、前よりもっと楽しくなった。


あとは、恋人とは今も恋人をやっている。彼の誕生日にはウイスキーをあげた。3年付き合っても未だに何をあげたら喜ばれるのかがわからなかったので、お酒が好きだからこれでいいや、と適当に選んだ。これが意外においしかったようで、時間ができたときはゆっくり味わっているらしい。わたしはウイスキーの何が良いのか全くわからないから、ど素人が選んだもので喜んでもらえてよかった。


そうだ、ここに何度も書いていた友人に子どもが生まれた。彼は「幸せになれない、幸せになりたい」を恐らく10年以上続けていて、やっとそれが、幸せになることが見えてきて本当によかったな、と思う。安定したからか、電話が鳴ることは減った。ひと月に一度、思い出したかのように連絡が来る程度。


わたしはゆっくりと精神をまるくさせながら、流れるように生きている。

すっかり変わってしまった。わたしが。
精神的健康優良児(もう児なんてつけられるような年齢でもないし、そんな気分でもない)になったわたしは、夜中に起き続けることも、意味もなく放浪することも、理由もわからず泣き続けることもなくなってしまった。精神安定剤と吐き気止めはいつの間にか飲まなくなっていて、手首を切るなんて以ての外。わたしはいつの間にか、あの頃とりあえず大切にしていた繊細な感情と、決別していたようだ。

人はそれを、鈍化したねと言うのだろう。わたしもそう思う。人生を謳歌している。何か大きなことが起きたわけでもないけれど、たぶんこれは、安定したことによる寂しさとの別離なんだろう。思春期の頃の甘酸っぱい感じとか全然思い出せないし、「あの頃は若かったから」なんて言い訳じみたことでいっぱいだし、なんかもう、なんなんすかね。変わることを拒否し続けていたのに、いざ変わってみるとこんなに潔いものなのか。


切なさとか夕暮れとか朝焼けとか涙とかそういうキラキラしてすぐに壊れそうなものをすべてどこかに置いてきたようだ。ああ、どこに置いたんだっけ、それは、どこかにやってもいいものだったんだっけ。

バンドに興味を持てなくなった。
あんなに狂ったように通っていたのに、発表された場所には必ず馳せ参じていたのに、持っているチケットをすべて売り払ってしまいたい。もうどこにも行きたくない。地方はもちろん、東京近郊でさえも。冷めてしまったのかしら。何が原因なのかしら。


旅行に行きたい。
建物がどこにもないところに、人がいないところに、自然しかないところに行きたい。

何度もここに書き続けていた、大切な友人が結婚することになった。で、それと同時に父親になる。
なんだか大事に育ててきた何かを放流するような感覚で、少しだけ寂しい。でも彼はずっと「家族が欲しい」と訴えてきたのだから、これが最良なんだろう。何にしても、おめでとう、よかったね。


わたしはいつ結婚するんだろうか。
恋人は、今新しい職場に勤めはじめて2ヶ月弱になる。休みが全くかぶらなくなってしまったので、以前より話す機会も減った。何のために同棲しているのかもよくわからなくなってしまった。一緒にいる時間を増やしたいから住んだと思うんだけど、結局一緒に住んでても時間は合わないし、っていうことを言うと一緒に住んでなかったらもっと時間がないんだろうけども、もやもや。
我慢するしかないのかな。さっさと結婚するべきなんだろうか。

気付いたら11月が終わって、12月を迎えていた。気温はぐっと低くなり、コートなしでは外を出歩けなくなった。高校生の頃からずっと着続けているベロア地の黒いコートには、また今年もお世話になる。

仕事ばかりしている。朝起きて、シャワーを浴びて、歯を磨いて、化粧をして、髪の毛を乾かして、服を選んで、家を飛び出す。満員電車に揺られて、会社の最寄りのコンビニで朝ごはんを買い、事務所でメールチェックをしながらおにぎりなり何なりを頬張る。定時を迎えてからは、電話応対、在庫確認、エクセルとの戦い、とにかくお昼の休憩だけを楽しみにして作業を続ける。お昼には泥のように眠り、また仕事を再開する。日によって早く帰れる日もあれば、日をまたいで帰ることもある。たまに、職場の人と少し飲んでから帰ることもある。職場の人のことは好きだ。頼まれれば何でもやるし、もっといろんなことを話したいと思う。どんな風に生きてきたのか、どんな音楽を聞くのか、何を考えながら生きているのか、とか。
家に帰るときの電車には、わたしと同じような表情の会社勤めの人ばかりで、そこには覇気はない。皆一様にスマートフォンを見つめるか、眠るか、パソコンを開いて仕事の続きをするか。本を読む人は減った。かく言うわたしだって、今電車の中でスマートフォンの虜だ。


土日は寝てばかりで、どこかに行くと言えば相変わらず近所のインドカレー屋か商店街を歩くかぐらいだ。たまにライブがあったり友人からのお誘いがあったりして恋人を置いてどこかしらに出かけるけれど、大半は二人で特に何もやることもなくごろごろしている。それがいいことなのかわからないけれど、限りなく幸せなんだろう。
生活から彩りが消えて、ついでに刺激も消えた。わたしの求めるものが何なのかわからなくなってしまった。大人になるというのはこういうことなのかなぁとぼんやり思いながら、家に帰ったら魚を焼こうとかそんなことを考えている。生活感が溢れている。


身動きが取れない。自分を壊したい。脱皮したい。
わたしは人間が大好きで大好きで仕方がないのに、話す時間があまりにも短過ぎる。

友達に会いに行った。会いに行った、というより、ライブ→空いてる日→ライブ、と中日を利用した日だったので、「ついでだったの!?」と言われるともごもごしてしまうのだけど。でも、今回会う機会がなければライブで遠征までしなかったので、やはり会いに行くというのは第一目的だった、と思う。

一年半弱ぶりに会う彼女は、ふわりとした柔らかさを湛えながら、あたたかさで溢れていた。なんだかんだで付き合いが10年少々になるが、ゆっくりと自分のことを話したことはそこまでなかったように思う。出会った頃はお互い棘棘しかった部分も、月日が経てばいつの間にか摩耗し、なんとなく、丸みが出来たように思う。

マニキュアを買った。彼女はいつも指先を綺麗にしている印象だったから、使うだろう、と思ってマニキュアを買った。アナスイの最近発売されたマニキュアを3本。どの色が合うかしら、この色は持っているかしら、なんて考えながら選んで、ラッピングしてもらって、当日彼女に渡した。驚くぐらい喜ばれて、嬉しかった。
なんでも、その日はちょうどわたしがプレゼントしたマニキュアを買おうと思っていたそうだ。これには少し、運命を感じざるを得なかった。そしてわたしの彼女に対する想い等々について誇らしく思うのであった。


話しているとなんとなく魅了されてしまうのは昔からだし、キスしたくなるのも抱きしめたくなるのも正直彼女ぐらいなのだけど、とりあえず物理的な接触はほどほどにしておいて、好き、とだけたくさん言った。最近のわたしのモットーは「好きだと思った相手に対して隠すことはしない」なので、とにもかくにも好意を伝えた。素直になることは大切なことだと思う。

うふふ、と笑う彼女が本当にかわいかった。「うふふ」という笑い方は彼女のために存在しているのではないだろうか、と思うほどにかわいかった。わたしはあのとき、世界で一番幸せだったんじゃないだろうか。
別に「特別」とかそういうのではなくて、わたしが「好き」だと思った相手に喜んでもらえたり話してもらえたり、そういうのってなんだかとても素敵じゃないだろうか、幸せじゃないだろうか。

うまく表現できないけれど、「わたしは素直に幸せになってもいいんじゃないか」と思う日だった。

地震があった。たくさん揺れた。
3年前の大きな地震のことを思い出した。バイトの途中で帰らざるを得なくなって、高島屋で暖を取ったり、新宿御苑にふらっと行ってみたり、後輩の女の子が通う大学で寝泊まりさせてもらったこととか。その一週間後には、研修という名の仕事とも呼べない何だかよくわからないものが始まったこととか。
「家の電気がぐるんぐるんと揺れて、そのとき俺は真っ先にお前のことを思い出して電話したけど繋がらなかった」と笑っていたのも思い出した。あのときわたしは依存していた。あの人もわたしに依存していた。それが解消されてから、数年が経った。お互いに違う生活をしながら、たまにお酒を飲んで、あの頃では考えられないような人間関係についての愚痴を聞いたり、仕事の話をしたり、変わったなぁと思っている。ぼんやりと。人間は変わるのだね。変わり過ぎたね。もう戻れないんだ、薄いガラスにはもうなれない。わたしたちは、今は、プラスチックになってしまった。