そつろん

一週間前までどうしようどうしようと頭を抱えていたけれど、やっとやりたいことが決まった。卒論では、現代で文芸評論がどう扱われてるか、生きていけるのか、つーか文学は死んでるのかどうか、みたいなお話をやろうかと思う。今まで散々「批評なんかしね!」なんてスタンスで文学部やってたけど、なんていうか、その批評がなかったらもしかして梶井も光太郎もサルベージされなかったんじゃないだろうか、っつー気持ちが浮かび上がってきて、だったら批評も必要なのかもしれないとかそんな方向に気持ちがシフトしてきた。つーわけでわたしの卒論テーマ、批評について。
とりあえず何したらいいかわからないから、菊池寛やら小林秀雄やら伊藤整は勿論、前田愛とか、いや、そんなに知らないけど、
で、気になって本買った。


文学界 2010年 01月号 [雑誌]早稲田文学 2号物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」 (角川oneテーマ21)皆殺し文芸批評―かくも厳かな文壇バトル・ロイヤル
結構な出費になった。三冊はamazonで買ったんだけど、本自体は安いのに送料だけで結構取られた。やめてほしいよねこのシステム。
更に、物語論の本はたぶん文芸関係ない。友達が随分前に「キャラじゃないっていう一言は、時代を反映してるっちゃーしてる」って言ってたから読んでみようかなと思っただけ。


自分の中の文学っつー定義を一回定義しなおさなくちゃいけないなぁと思う。わたしの中では現代文学近代文学の間にはとんでもない隔たりが存在してるから、その意味のわからない尊敬だか憧憬だか妄信?を捨ててみよう。今と昔で何が違うのか、批評は生き残れるのか、批評を通して文学作品の再興はあり得るのか。
だって芥川とか夏目漱石はきっとこれからも読まれていくんでしょ? でも新しく研究しようとは思わない。だって今のわたしたちから見てもそれは時代背景も違うし書かれた当時の編集やらの状況だって違うし、その頃の状態を復元して考えてみたとしても、そんなのは既に誰かがやっている。比較するのはそれじゃない、批評自体の位置だ。話題が逸れた。で、村上春樹はさておき、ほかの作品は読まれていくんだろうか。三十年後も残ってるかどうかわからない作品て本当にたくさんあって、そういうのってどういう風になっちゃうんだろ。やっぱりそれを掬いあげていくのも批評家の仕事じゃないんじゃないかと思う。
でーもー、こうやって書評も何でもネットに上げられる時代では、プロの批評家って存在意義あるのかな。と思うと、違う分野の学問にも手を突っ込んでないとなかなか難しいと思う。そういう意味でアニメやら漫画やらにも口突っ込んでる東浩紀は今だからこそ、だと思うし、うん、やっぱり文学は今はもうアニメには勝てない。なーんてね。