着信履歴を見るだけで幸せになれる、のか?

一昨日の深夜に恐怖の大魔王から着信あり。恐怖の大魔王とか書いてる割には大好きで大好きで仕方ない人なので何とも言えない。彼と関われば関わるほど自分の中での彼の位置が下がっていく、みたいなことを書いたような気がするけれど、やはり彼には敵わない。以前近付けたような気がしていたけれど、勘違いだったらしい。わたしが後退したのか、彼が後退したのかはよくわからない。だけど、なんとなく噛み合わなくなっていた。きっとわたしが老けてしまったんだと思う。もうあの頃の青春期特有の気だるさに包まれることもないんだろうか。叙情的な感性はだんだんと損なわれていくんだろうか。

いや、きっと、そんなことはない、と信じて、太宰治の生涯を通して人間の浅はかさを考える。わたしはね、別に彼の人生がどうのこうのでこんな小説を書きました、なんてことはどうでもいいんだ。ただ彼がどんな風に病んで、どんな人間関係を作り上げて、そしてこんなに鬱々としながらも代表作以外にたまに見せる明るさを書くような人は、いったいどのぐらいダメな人間だったのかしら、ってそれだけが知りたいの。それは他人に対する興味の方向と同じもので、たまたま死んでた人なんだよ、ねぇ。

素敵な文章を書く人がいったいどんな人なのか、ということに対して興味を抱くのは極自然なことだと思うのだけど、それはわたしだけなのだろうか。


話が逸れた。彼は、恐怖の大魔王は、わたしになんとなくの不安と不満を零して満足したのかどうかよくわからない状態で、「寝るぞ」と言って電話を切った。きっと彼の欠落した部分にわたしが当てられることは一生ない。その逆も然りなのだから、当然と言えば当然で。わたしがだんだんと強気になればなるほど、彼はわたしを遠退けるし、わたしもそれと同じように行動する。良いのか悪いのか。酔っ払いの言ってることは当てにならない。
わたしのこのよくわからない強気は、いったいいつまで続くんだろう。