夢か、幻か

わたしが知っている彼は、マクドナルドには決して行かなかった。いつもフレッシュネスバーガーか、小洒落たカフェで落ち着いて本を読んだり何か書き物をしていた。アルコールを飲んだり煙草を吸ったり写真を撮ったり、何かと目立つ、整った顔立ちの青年だった。だから深夜の新宿東南口のマクドナルドで、彼にとてもよく似た男を見たわたしは、あまりの衝撃に凝視せざるを得なかった。
わたしは彼に対して敬愛と畏怖心を抱いていた。彼は決して他人に媚びることはなかった。彼は世界を否定していた。否定しながらも、心の底から誰よりもこの汚れた世界を愛していた。彼は人間を嫌いながらも、愛していた。彼はその矛盾にいつも悩み苦しんでいた。彼はいつだって誰かの心の中に存在していた。
「下北沢のゲーセンでわざわざ太鼓の達人をやる意味がわからない」と、彼は少年たちを見ながら侮蔑していた。そんな風に言っていた彼だから、わたしはそのマクドナルドで見た似ている男が女を隣に侍らせてPSPに興じている姿を見て驚いた。
もちろん彼が彼であるという確証はどこにもない。ただ、わたしが見た瞬間に、彼の、その男の存在を捉えた瞬間に、どうしようもなく似ていると思ったのだ。目もとが似ていた。マスクをしていたからあまり口元はわからなかったけれど、それでもたまに外した瞬間を見計らってちらりと見つめてみたら、それはやはり何となく似ていた。どこかで「違う」点を見つけようと頑張ってみたけれど、見れば見るほどその男は彼に見えた。彼は、彼だったのだろうか。
だけど、わたしが知っている彼は決してマクドナルドには行かない。女を隣に侍らせながらPSPで遊ぶなんてそんな無粋なことはしないだろうし、何より、ああ、そうだ、煙草を吸っていなかった。酒も飲んでいなかった。カメラも携えていなかった。adidasのボストンバッグだった。どこのメーカーかよくわからないスニーカーだった。少し余裕のあるカーキのパンツを履いていた。黒いタイを締めていた。きっと違うんだろう、人違いだ。それでもあの男は、わたしを真正面から一度だけ見つめて、笑った。あれはわたしが彼を見過ぎたから? そうなのかしら。
事の真偽を確かめようにも、例の彼はもう長い間携帯電話の電源を切っている。手紙を送ろうにも、住所を書いた紙を紛失してしまった。友人に聞こうと思ったが、一人の女の子はきっとこの話をしたら狂ってしまうだろうし、もう一人の女の子はきっとこの話をしたら落ち込んでしまうだろう、そう思ったから、わたしは一番付き合いの長い元恋人に電話を掛けた。やはり彼も「違うだろう」と言っていた。それでも確証は得られない。結局、わたしはこの何とも言えない悶々とした気持ちを、彼に会うまでずっと抱え続けるのだろう。


彼について考えるとき、わたしは自分が一つの存在なのだと改めて自覚する。彼について考えるとき、わたしはわたし以外の何者でもない。わたしはわたしとして彼について考える。彼はわたしを一個の個体だと認識してくれる。ほかの物との境界線が曖昧になりつつあるわたしは、彼の存在によって他者と区別される。わたしはわたしの頭の中でしか彼について考えられない。誰が何と言おうと、わたしはわたしの感覚でしか彼について考えられない。