2010年頃からずっと好きなバンドの、一番好きなメンバーとオンラインで会話をした。

いわゆるシングルやアルバムが発売されて実施されるインストアイベントにはちょこちょこと足を運んでいたが、実際にマンツーマンで、個人だと認識されながら話す機会というのは本当に久しぶりで、たぶん2年以上ぶりなのかな、と思う。2014年か2015年頃に「自分を認知されることを目的に通うのはやめよう」と一旦すべてへの執着を捨てたつもりではいたが、やはり「わたし」として認識されている優越感や幸福感はとても甘い蜜なようで、そういうものを放棄したと思い込んでいたあとも年に一、二度程度そういうイベントに足を運んでいた。

 

今回は、コロナの影響でまったく接触がなくなったことへの配慮から発生したイベントだと思う。一人二分間、ほかに映像での生配信2時間プラスアルファがついて、5,000円ぽっきり。シングルを何枚も、アルバムを何枚も買っていたあの頃に比べても、だいぶお得なんだろうな、と思う。生で握手とサインをもらわないとしても。

 

久しぶりに話す好きなバンドマンは、やはり誠実で、素晴らしかった。ときどきたまにモニターではなくカメラをきちんと見つめてくれるのがうれしかった。

特にたいした話をしたわけではないけれど、楽しかった。

最近とにかく思うのは、二人でやっていないことをたくさんやっていきたいし、二人で行ったことがないところにたくさん行きたいな、ということで、たとえば旅行だし、たとえば遊園地だし、たとえば乗馬だし、たとえばボート乗りだし、それはそこに行きたいとかそれをしたいとかそういうことよりも、「二人でやりたい」「あなたとやりたい」がずっとずっと大きい。わたしの人生はなんというか、彼とやったことがないことをやったり、行ったことがないところに行ったり、その繰り返しというか、それを一つずつ達成することに幸せを感じるんだなと思っていて、だから、元気に健やかに生きていてくれればどうでもいいし、わたしのことを見ていてくれればそれでいいや、って最近本当にずっと考えている。

わたしは生涯をかけて彼を笑わせていたくて、幸せにしたくて、充実させてあげたくて、なんだかおこがましいなと思うことばかりだけど、それでも、一人ぐらい、そういう風に思える人がいたっていいじゃないか、と思う。

毎日、朝日が昇る少し前に目が覚める。恋人(もう付き合って9年目を迎えようとしているのに、未だに関係の名前が変わっていないことに対する焦りはどこかに消えた)が仕事のために早朝に家を出るので、その支度中に自然と目が覚める。その後はすぐにまた眠るか、こうやって少し冴えてしまった頭をクールダウンさせるために、何か適当に読んだら書いたりしている。


嫌いなことが多い。が、ここ数年で感じたのは、嫌いだなと思うときにそのときの感情に巻き込まれて嫌悪感を覚えていないかどうかをきちんと理解しているか、ということ。大体いつも思うままに気の向くままに生活しているので、なんとなく嫌だなと思うと「嫌いだ」とすぐ判断してしまう。が、後日改めて確認すると「そうでもないかな」と思うことが多々あるので、気持ちをフラットにしないとなぁ、と日々感じる。

もしかしたらその「嫌いだ」は直感的なもので、本来は大切にしないといけない何かかもしれないが、何にしても即時的な気持ちにだけ翻弄されていては、いつまでも自分が疲れるだけだ。

外に出たら、まるで春の陽射しを思わせるような温かさだった。服を着るのも面倒だったのでパーカーとスカートと靴下で出たのだけど、今日ばかりはわたしの横着さが気温に勝ったようで、ちょうどよい具合だった。

家の近くの川はすっかり秋模様で、少し前まで青々と茂っていた木々も黄色や赤色に変わっていた。足元に落ちた葉が鮮やかだった。いつもなら少し憂うような秋の訪れに対して、何の感慨も覚えなくなってしまった。きっと、今年だから、だと思う。

 

年に何度か生きている意味がわからなくなる時期が訪れて、それはその時々で長かったり一日で終わったりするのだけど、今回はどうやら深く、そして長いようだ。8月頃から心に訪れた焦燥感と脱力感が続いている。対処法がわからない。今までは大体このぐらいの時期になると好きなバンドのライブに足を運んだり、映画を見たり、そういうことで無理やりにでも自分を引っ張り上げるようにしていたが、今はいわゆるそれにあたるものがない。どうすれば自分を「生きている意味」がわかる状態に持ち直せるのかがわからない。

自暴自棄になりそうで、でもそんなことをしても意味はないよと頭のどこかで理性が止める。道を逸脱したい。若しくは立ち止まりたい。時間は止まってくれない。気付いたら一日の終わりを迎えていて、今日もわたしはダメだったな、と眠りにつく。眠れているだけいいじゃんね、なんてね。

毎年同じようなことを考えているけれど、一生続くんだろうか、この虚しさとの付き合い。しんどいな。

物理的なボタンはどこにもなくて、ただ画面の上で指を滑らせるだけ。昔は親指に脳が入っているのではないかなんて笑っていたけど、今は親指よりも人差し指にその成分が受け継がれたような、そんな気持ち。

ねえ、そんな話を笑いながらしていた人たちよ、今どこにいるの。わたしは未だに自分の中の大事な部分があの頃に残されているような、消せないセーブデータみたいになっているよ。みんなはもう、そんなの忘れて今の暮らしだけに没頭しているのかしら、ねえ、どうすればそうできるの。教えて、教えて。


秋は死にたくなる皆さん、とかTwitterに書かれていて、秋にそんな死にたくなるような要素あったかなあと思ったけど、季節問わずそういう気持ちに陥っていた。人前で騒いだり誰かに訴えたりするようなことはもうないけれど(誰も取り合ってくれないし、一時的な自分の気持ちの解消よりも、その後の人間関係を選べる程度には大人になった)、でもそういうのが消えたわけではないからやはりずっと残っていて、悲しい。切ない。秋の空気は一緒に歩いた季節を思い出す。ねえ、元気にしているのかな、電話番号も変えられない。

こんにちは、こんばんは。

気付いたら10月になっていた。結構、本当に、びっくりした。今年はこんな状況なこともあって、わたしの中では6月と8月、9月は存在していないような感覚になっている。まだ半年ぐらいしか過ごしていないような。濃度が低いわけではないのだけど、何もしていないような、何の変化もなかったような、あったような。よくわからない。でもたぶん、わたしだけではなくて、世界中のいろんな人が今年は特別な一年になっているんだろうな。今年だけだといいけどね、特別な一年。



転職活動をしている。きっかけは何だっただろう。去年の秋頃の台風で、社員への安全配慮が足りないと感じたことかしら。それとも、一番大好きで仲の良かった同僚が辞めたからかしら。はたまた異動してきたおばさまとの相性がめちゃくちゃ悪かったことかしら。若しくは上司との考え方のミスマッチかしら。もしかして今回の騒動で頑なにリモートワークを好ましく思わない会社への不満かしら。何にしても思い当たる節はよくあるなと思う。6年と半年、まあまあ働いた方ではないのか。

自分の過去を振り返り、履歴書に書ける仕事をきちんとしてきたのかな、と不安に思う。誇張できるかどうかというか、客観的に能力として自分で自覚しているかどうか、なのかな。わたしが自分の中では大したことないよと思っていることでも、実は世間から見たら結構よくやっている方だった、というのは往々にしてある。その逆も然りだけど。

新しいところでも(まだ決まってないけど)しっかり仕事できたらいいな。


一年間、何も書いてなかった。

ノリで開設したもうひとつのブログにも何も書いてなかったので、本当に長いことTwitterにしかぶちまけていなかったのか、と驚いた。長いこと長文なんて書いていないので、何を書けばいいのかもよくわからないな。

 

引っ越しをした。6年と少しぐらい住んだ家から、もう少しだけ広い部屋に二人で引っ越しをした。彼とはまだ仲良く楽しく暮らしていて、きっとこのままだと特に大きな変化もないまま一生二人でいるんだろうな、と思う。わたしが身を置く環境を変えても、彼のやりたいことが変わっても、二人の魂はずっと同じだから、ずっと、きっと、一緒にいるんだろうな、と思う。

二人で布団で眠っていると、このままこの布団の世界だけになって、ほかはすべて滅びてしまえばいいのにな、と無意識に考えている。それを彼に言うと、彼は「それはつまらないから嫌だな」と言う。ここで同調するような人だったら、こんなに長く一緒にいられなかっただろう。わたしと彼は、寄り添うには十分過ぎるぐらいフィットするハートを持っているけれど、重ねるとまったく形が合わないんだろうな。だから二人でも大丈夫なんだろうな。

テーブルがこの家にはない。食卓を二人で囲むことがほとんどないのはわかっていることだし、邪魔だから、と彼が家に置くことを嫌がった(たぶん前の家でわたしがテーブルの上に化粧品をたくさん置いたままにしていたから、物置みたいになるのが嫌だったんだろう)。テーブルがないと、生活感が全然発生しないんだな、とわかった。新しい気づきだ、なんて。

 

一人でいる時間が増えた。でも別に寂しくない。それは彼がいなくても大丈夫、とかそういうことではない。そういう状態に、やっとなれたんだと思う。今でも突然悲しくなるしどうしようもない無力感に襲われることもあるけれど、でも、やっと、年相応の落ち着きが生まれ始めたのかな、と思う。長かったな。