久しぶりにキーボードを使ってここに書き込む。というのも、彼氏と同棲し始めて4年が経つが、その間わたしの生活においてPCに触れることは仕事以外ではほとんどなく、文章を書く、何かしら書き込む際はすべてiPhoneを使用して、のことだった。が、最近キーボードを使って文章が書けないことに対するフラストレーションの発生が著しく、ようやく念願のbluetooth接続のキーボードを手に入れたのであった。素晴らしい。文章入力が捗るぞ。
というお知らせでした。ここにもちょいちょい書きに来よう。

久しぶり。
全然久しぶりなんかじゃないって? 何を言うんだ、随分長いこと会ってなかっただろう、この時間のきみに。元気にしていたかい。相変わらず世界の終わりみたいな顔をしている。昔の、この時間のきみも、同じような顔をしていたね。何も変わっていないのか、安心するような、少し心配するような。まぁ何にしても、とりあえず元気そうでよかったよ。
眠れないんだろ、知ってるよ、ずっと見ていた。眠れなくてインターネットの海に溺れて、もう自分のそばにいない人の影を求めて波に漂っていたんだろう。何か見つかったかい、どうせ思い出しか見つからなかったんだろう、そんな顔をしている。
新しい出会いにすべてを託せばいいじゃないか、きみの周りにはいつだって魅力的な人たちがいる。現実を見据えながら、ごくまともなことを告げてくれる、大切な人たちがいる。センチメンタルさから離れている気がするって、そりゃあもういい歳なんだから当たり前だ、いつまでも甘えたことを言うなよ。朝から夜にかけてのきみはすごいんだぜ、仕事をバリバリこなしている。服だって、きみはいつも何かに呪われていたかのように黒ばかり着ていたけど、あいつは今、ピンクだとか水色だとか、そういう春を感じさせるような色の服を着ているんだ。劇的な変化だよな、正直よくわからないよ、あいつの心境にどんな変化があったのか。
切なさとか悲しさっていうのは、絶対に消え去らないんだ。でも少しずつ削ることはできる。もしきみが自分の心の弱さを過去の環境のせいにしているなら、それはもう言い訳にしかならない。きみは本当はいろんなことを変えられる力を持っているのに、自分の意思で変えていないだけなんだ。きみは自分の切なさとか悲しさを誤魔化す術を持っているんだ。そんなこと、自分が一番理解しているんだろ。
もうじき朝だ、朝から夜にかけてのきみに交代しなくてはいけない。インターネットなんてやめて、早く眠ったほうがいい。きみは、いいかげん思い出に縋るのを、やめるべきなんだ。

どっと疲れる。
さすがにこの世界に住み始めて長くなるので、それに伴い付き合いが長くなった人や、知っている顔も増える。彼ら彼女らの大半と接していると、心のどこかに10代のあの頃が見え隠れすることがたまーにある。別にそれはどうでもいいんだけど。
この世界での縁の切り方は簡単だ。アカウントを削除すれば終わり。その後は、大体、さようなら。電話番号を変えてもいいし、携帯ごと捨ててもいい。連絡手段さえ失くしてしまえば、実家の電話番号も知り得ない我々は、二度と出会うこともない。

10年ほどの付き合いになる友人に、この前電話した。ただ親指で何度かタップすれば繋がるのに、どうしてもできなかった。半年ほど思い悩んでいただろうか。
意を決して通話のマークをタップしたら、聞こえてきたのは機械的な女性の声だった。お掛けになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度、お掛け直しください。おいおい冗談はやめてくれよ、お前とどれだけ長い間つるんできたと思っているんだ、と再度掛け直すも、同じ女の声がした。

やってらんねーよな。

仕事で割と大きなミスをして、特にお咎めはなく終わったのだけど、それに至るまでのいろんなことで精神が荒みまくっていた。別にミスをしたことだけが悲しい辛いではなくて、気付いたら2月に仕事の人と彼氏以外にゆっくり時間を作って会わずに終わっていたぐらい忙しかったので、それによるものだろう。忙しさに負けて体調を崩してライブを二本逃すし、割と踏んだり蹴ったりな1ヶ月だった。
リセットできただろうか。


あまりにも疲れたときやつらいときに、割と丁寧な接客をしてくれるお店にいく傾向がある。自分で物を探して選んでこれください、ではなくて、提案型接客のお店。たとえばにこやかにお話をしてお顔に色を乗せてくれるデパートのカウンターコスメとか、日頃の疲れを心から労ってくれるような店員さんがいる少しお高い基礎化粧品売場とか、何もかもを許してくれるような顔をしながら紅茶を注いでくれるウエイターがいる喫茶店、とか。とにかく誰かに労ってもらいたくて仕方がなくて、それがお金を払って実現されるのなら、喜んでお支払いします、というような。
だいたいそういうところで丁寧な接客を受けた後は心が浄化されて、幾分か気分もマシになる。ある程度は回復する。しっかりとアラサーの買い物をするようになったなと実感する。


もうさすがに、呼吸をするだけで誰かが褒めてくれるような年でもないし、いちいち誰かに「息吸ってもいいですか?」と許可を得ないと怯えてしまうような精神状態でもない。
相変わらずわたしは美しいものとかわいいものが大好きで、昔とそんなに変わったような気もしないけれど、確実に鈍くなったし丸くなった。それについて、いいことなのか悪いことなのか未だによくわからない。でも、ダメな年の取り方はしてないんじゃないのかなー、と思わなくもない。ケセラセラ

きっともう、昔みたいなヒリヒリしたようなそんなものは書けない。それは環境が変わったからというのもあるし、わたし自身がまあるくまあるくなったからだし、あと本を読まなくなったし、とりあえず時間があればiPhoneをいじるような生活をしているからだと思う。


わたしがヒリヒリした文章を書いたり、危なげな生活を送っていたのは、わたし個人の特性によるものではなく、ほとんどが周りの人たちに影響されて、だった。刺激的なものを運んでくるのは大好きで大切な友達だったし、不安定なちょっとした幸せを与えてくれるのも友達だった。恐らく自発的に何かをしていたなんてことはなくて、他人からの何かしらで人生を楽しいものにしていた。
わたしは絶対に、一人では生きていけない。


そうやって他人にある意味依存しながら生きているのに、退屈なのは耐えられなくて、今でも刺激を求めてしまう。何か違うことをしたい、昨日とは違う今日でありたい、明日は人生で一番幸せで楽しい1日にしたい、とか、とか。


なんかよくわからないんだけど、わたしはきっとずっとずっとこの日記を書き続けるし、文体が変わろうが自分が変わろうがお構い無しにインターネットの波に溺れ続けるのだ。